哲学の常態化

哲学に触れていると、正確には哲学史や哲学者に触れてみると、「こいつら当たり前のことしか言ってないな」と感じることが多々ある。

 

その理由はなんだろう。ぼんやりではあるが、二つ候補が見つかった。

 

まず、現代社会が"哲学"という巨大で豊穣な土地の上に成立したというもの。アリストテレスだのカントだのニーチェだの、そうした巨人たちが提唱していたものが一部であれ全体であれ、固定観念と化したのではないか。

「巨人の肩に乗る」とはよくいったものである。

 

次に、日本人であること。現代まで、哲学=西洋という式がアプリオリなものとして成り立っていた。アジアにもインド宗教や中国思想があったにも関わらず。西洋中心主義は外見だけでなく思想にも根をはっていた。

近年はそれに批判が挙がり(著名な西洋人が発端だった気がするが思い出せない)、2020年にはちくま新書から『世界哲学史』シリーズが出版されている。編集者の面々が恐ろしいので是非手に取って欲しい。私はまだ三巻までしか読んでいないのだが、空海の章は必読である。

 

話がかなり脱線したが、つまるところ西洋哲学者たちの議論は西洋でしか通用しないものであるため、日本に持ち込まれたところで「だから何?」となるのである。

 

以前、哲学に興味がある友人にカントのコペルニクス的転回について語る機会があった。結果は散々で、自分でも説明を放り投げたくなった。

もちろん、私の勉強不足が一番の要因であることに疑いはないのだが。

 

というわけで、哲学の常態化について書いてきました。私は哲学者の原典にあたったことはないし、歴史についても詳しくはない。そのため、誤った見解である可能性が大いにあるが、そこは"哲学をした(自分で思考した)"ということで、目をつぶっていただければ私の心が安まります。